在地藝文

旧台湾府城東門城壁跡(原臺灣府城東門段城垣殘蹟)

光華街に大東、小東門跡はあります。その構造と外観から、現在、成功大学光復キャンパス内にある小東門跡と同じく清乾隆53年(1788年)に建造されたと推測されます。清朝統治時代に台湾で朱一貴の乱が起こり、雍正11年(1733年)、皇帝の命により木柵と竹で城が作られました。乾隆53年(1788年)、林爽文の乱が起こり、平定された後に木柵と竹でできた城は土城に改められました。城壁はより強固に、規模もさらに拡大され、後の基礎となりました。道光12年(1833年)の張丙の乱の後、外城が拡張されましたが、明治44年(1911年)、台南市区改正計画の実施にともない、城壁は次々に撤去されました。

城壁跡は、光華街と東門路一段56巷の交差点に位置し、南側は民家に、北側は2つの民家の間にあります。外から観察すると、石積み構造であることがわかり、端から底部に向かって土台が形成され、東西側面は台形になっています。光華街周辺は住宅地となっていますが、その全体的な景観はほぼ完全な状態で残っています。南側の城壁跡は外から観察すると、もはやかつての外観はみとめられず、わずかに壁が残るのみとなっています。北側の城壁跡は2つの民家の間にあり、西側は東栄街に面したフェンスにさえぎられて中に入ることができず、全体を窺うことはできませんが、フェンス越しに残存する城壁を見ることができます。

旧安平陳保正厝(原安平陳保正厝)

陳保正厝は清朝統治時代から延平街にあり、清朝末期に福建から台湾へ派遣された海軍の陳織雲が日本統治時代に保正となった際の住まいで、典型的な三落式街屋となっています。後に延平街の拡張により前部分が取り壊され、中間、後部の構造を残すのみとなりました。内部には中二階と珊瑚石を使用した壁があり、中間、後部の中庭にはしっかりとした保極照壁(目隠し用の壁)があります。これは厚さ42センチのレンガを積み上げたもので、高さ約4メートル、幅約1.5メートルの大きさです。照壁には「保極」文字の八卦が刻まれ、上部には日月雲の装飾が施され、4つの角を4匹の蝙蝠が取り囲む、この建物最大の特徴となっています。

香光聖堂(香光聖堂)

台南市香光聖堂は一貫道に属し、弥勒仏、燃燈仏、釈迦仏を祀っています。総面積は約1350坪です。堂内の「無尽蔵文物館」には国内外の貴重な古文物が収蔵されています。無極清虚宮、三聖殿などの華麗で優雅な建築物に廟の正面にある主牌楼(大門)や4本の樹齢100年以上のアカギが聖堂に荘厳な雰囲気を醸し出しています。

勝利小学校講堂(旧勝利国民学校講堂)(勝利國小禮堂(原勝利國民學校禮堂))

勝利国民学校講堂は現在の勝利小学校内にあります。もともとは台南市竹圍国民学校として1939年に創立された台湾人児童のための小学校で、第二次世界大戦後の台南市東区における唯一の小学校でもありました。当時、抗日戦の勝利を祝って勝利国民学校と改称され、1953年には年国軍工兵支援部によって講堂が建設されました。小さな木材を組み合わせた大スパンの屋根架構の双坡式傾斜屋根(切り妻屋根)が特徴的な建物です。

台南二中(旧台南中学校講堂)(台南二中(原台南中學學校講堂))

旧台南高校講堂は1918年に建設され、現在は台南二中(台南第二高校)の小講堂となっています。日本統治時代の中学(高級中学=高校)は基本的に日本人と台湾人の2つの教育システムがあり、ここはもともと日本人生徒のための中学でした。第二次世界大戦後、日本人生徒が激減したため一時的に現在の台南一中と合併し、後に正式に台南二中となりました。
 
講堂の建物には傾斜屋根(切り妻屋根)が採用され、日本統治時代の他の学校建築と同様に学び舎としての風格が色濃く漂うものとなっています。現在の講堂北側の演壇上には今もなお、日本統治時代に天皇陛下の御真影と教育勅語を保管していた奉安室が残されています。

立人小学校忠孝楼(立人國小忠孝樓)

西門路を通りかかるとこの特別な建物に引き付けられずにはいられません。寶公学校本館は1938年に建設されました。学校名はその所在地の行政区画である寶町から付けられ、学校名は「寶」公学校ですが、多くの旅行者が「寶公」学校と間違えています。寶公学校は日本統治時代の台南市内における最大の規模を誇る近代化された公学校で、非常に特殊な建築様式となっています。本館はL字型で、角が斜めにカットされ、中央部を形成しています。入り口とメイン階段はここに設けられ、両側は事務所と教室になっています。現在は立人小学校忠孝楼として教師や生徒の心の中にある学校の精神的な象徴ともなっています。西門路を通る際には、足を止めてこの美しい特別な建物を鑑賞してみてください。

旧安平港導流堤南堤(原安平港導流堤南堤)

台南付近の海岸はオランダ統治時代から鄭氏時代を経て清道光2年までの約200年間、安平は台湾本島とつながっていない小島でした。安平と台南海岸の間の海は、当時、台江湾と呼ばれ、古代の大型艦船の出入りが可能な約5~6メートルの水深がありました。安平は一続きの砂洲の一つで、かつては一鯤鯓と呼ばれていました。安平の南から現在の二仁溪口付近にはほかに6つの砂洲があり、7つの砂洲はそれぞれ一鯤鯓から七鯤鯓と呼ばれています。安平の北は水路で隔てられ、北線尾の砂洲と面しています。この水路は台江湾に入るための要所であり、オランダ人は熱蘭遮城(安平古堡)を建設してこれを守りました。北線尾の北は鹿耳門とその間の港の砂洲に面し、こちらも台江湾に入るための要所となっています。

潁川家廟(潁川家廟)

潁川家廟は清嘉慶年間に建てられ、1956年に全面改修が完了しました。潁川家廟はレンガ造りの建物で、陳家の最初の1祖先が居を定めた場所です。閩南式のロの字型建築で、2進3開間の配置となっており、,穿斗式の屋根組みとなっています。木造構造で、屋根は赤い仰合瓦、稜線は燕尾のように跳ね上がり、建物本体には草花、龍、雲などを象った装飾が施されています。

仁寿宮(仁壽宮)

仁寿宮祭祀大道公、太子爺は明鄭時代に作られたと伝えられています。主祭神として祀られている保生大帝は、300年以上前、鄭成功の部下であった呉鳩山が順調な航海を祈願して福建省同安県から携えてきた金色の保生大帝像が奉納されたものです。もともとは吳の住まいにありましたが、保生大帝が非常に霊験あらたかで、地元の人々がその奇跡的な庇護に感謝を示すために廟が建立され、増築を繰り返し、現在の規模となりました。

擇賢堂(擇賢堂)

葉石涛紀念館にほど近い路地にあり、路地を進み堂の中へ入ると、まるで別世界のような静けさに満ちています。擇賢堂は時代を感じさせる建物で、白い壁には木製の原色の門扉、通気用の花模様をあしらった緑色のタイルがはめ込まれ、堂内の装飾も伝統的な姿を保っています。1879年の建立から現在にいたるまで幾度かの改修を経てはいますが、外観は元の姿とほぼ変わることなく、現在もなお斎教先天派の寺として仏門に仕える法師がここで生活をしています。

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