旧嘉南大圳組合事務所
日本統治時代の台湾は、経済植民地でしたが、当時の嘉南平原の水資源は乏しく、農地の大部分は不毛の地でした。嘉南地区の農民は干ばつや雨による災害に見舞われることがよくありました。日本人が設立した「公共埤圳嘉南大圳組合事務所」は、嘉南大圳を建設し、嘉南平原の灌漑用水の問題の解決に努めました。当時、事務所は嘉義郡嘉義街に建てられ、1909年に台南庁内に移されました。業務の幅が広がり続けたため、1940年、現在の場所に改めて設置されました。
日本統治時代の台湾は、経済植民地でしたが、当時の嘉南平原の水資源は乏しく、農地の大部分は不毛の地でした。嘉南地区の農民は干ばつや雨による災害に見舞われることがよくありました。日本人が設立した「公共埤圳嘉南大圳組合事務所」は、嘉南大圳を建設し、嘉南平原の灌漑用水の問題の解決に努めました。当時、事務所は嘉義郡嘉義街に建てられ、1909年に台南庁内に移されました。業務の幅が広がり続けたため、1940年、現在の場所に改めて設置されました。
国立台南大学の校門を入ると、ひときわ目を引く赤い建物があります。1922年に建てられた旧台南師範学校本館で、当時は「台湾総督府台南師範学校」と呼ばれました。第二次世界大戦時の1945年に空襲に遭い、屋根がほぼ全壊、1947年に修復されました。十字を二つ繋げた双十字型の建物は、赤レンガを主建材に使用しており、「紅楼」とも呼ばれます。本館前方にある一本のリュウキュウマツは、1923年に当時皇太子だった裕仁親王(昭和天皇)が植えられたものだと伝えられています。紅楼と合わせて、台南大学の精神の象徴になっています。毎年6、7月には、紅楼のナンバンサイカチの花が見頃を迎えます。黄色い花の滝と赤いレンガが互いに映え合う景観は見事で、訪れるには絶好の時期です。
週末の正興街、国華街(國華街)一帯は、とてもにぎやかです。その中にある淺草新天地(淺草新天地)は、若者がクリエイターズマーケットを開く場所になっています。淺草新天地の由来は、1933年に日本人が西門市場周辺に店舗を建て「淺草商場」と呼んだことにあります。西門市場はリフォーム後、商店街の活性化や若者層にターゲットを広げるため、西門淺草フリーマーケットとして整備されました。各種イベントの開催などにより、集客に成功し、周辺の商店街にも活気が戻ってきました。週末には、アイデア満点のフリーマーケットだけでなく、大道芸人のパフォーマンスも行われます。淺草新天地は西門市場になくてはならない特有の文化となり、市場に創意と活力をもたらしています。
西市場は台南の人々に共通する思い出の場所です。西門路に位置する公有市場で、1905年に建てられました。台南では「大菜市(西菜市場)」と呼ばれ、かつては南台湾最大の食材市場でした。もとは木造だった市場は、長い歴史の中で何度も改修され、現在の姿になりました。もっとも賑わっていた頃には、市場の2階には高級レストランもありました。市場内では、6桁の電話番号が印字された古い看板が見られるほか、屋根には、不規則に配線された電線が絡みつき、昭和時代を思わせます。まるで、ここだけ時間が止まっているかのようです。
市場の商業形態の変化に伴い、現在、西市場は布地市場になっています。布地問屋にはバラエティー豊かな布地が並び、台南スタイルの流行をうかがわせます。また、市場には庶民グルメの店も点在しています。古跡にも指定されており、台南旅行の際はぜひ訪れたい市場です。
百年の歴史ある町並みが残る神農街には、1830年に建てられた金華府があります。当時、五條港の五大氏族の一つだった許一族が建てたものだと伝えられています。許家の守護廟だったのかもしれません。廟には主神に関聖帝君と馬、李二人の王爺が祀られています。「府」の字が廟の名前に用いられるのは非常に珍しいことです。
神農街は当時五條港区の街道だったので、比較的狭く、金華府も町家形態の制限を受けています。敷地は広くなく、後に何度も修繕工事が行われましたが、当初とほとんど変わらない姿で保存されています。毎晩廟の門が閉じられると神農街の街灯が灯り、金華府の赤いランタンと黄色い街灯が互いに映え合い、古典的な風情が色濃くただよいます。門には門神の代わりに鋲が打ち付けられていて、照明を受け、赤い門に美しい影を描きます。古めかしい美しさに思わずうっとりしてしまいます。
葉石涛は台湾本土文学において重要な文学者の一人です。「ここは夢を見て、働いて、恋をして、結婚して、ゆったりと暮らすのに良い場所だ」とは彼の台南生活に対する印象です。 記念館は二階建てで、一階には府城文学地図が展示されています。台南府城の小説、随筆、評論が紹介されています。葉石涛の生涯や著作、主要作品、手書原稿も展示されています。二階には、葉石涛文学書房、ドキュメンタリー視聴室、葉石涛ゲストルーム特別展示区があります。ゲストルーム展示区には、古い机の上に当時のメガネや愛用していたペンが置かれていて、彼の創作者であり続ける精神が伝わってきそうです。
鄭氏家廟とも呼ばれます。鄭經が1663年に建てたもので、父である延平郡王鄭成功と母親の董妃を祀っています。近年、外壁が取り壊され、歩道との隔たりがなくなり、より多くの人が立ち止まり参観しやすくなりました。府城の中で、延平郡王祠のほかに、鄭成功に関連するもう一つの重要な地点です。正殿には、鄭成功の国内外の親祖と夫人、董妃の神位が祀られています。家廟の神像や、古い建物、古い井戸、数多くの古い写真などを見ていると、鄭家が台湾で壮大な開拓計画を繰り広げた時代にいるような気持ちになる、台南の歴史の宝箱です。
毎年旧暦1月9日の玉皇大帝生誕日の天公廟参拝は、台南の人々にとって恒例の行事になっています。行列は天公廟から鶯料理亭の前を通って公園路にある気象館(氣象館)まで続き、非常ににぎわいます。1854年に建てられた天壇天公廟は鄭成功が祭祀を行なった場所だと伝えられています。現在の建物はすでに何度も改築が行われていますが、廟内にはたくさんの貴重な古文物が保存されています。左右両側の壁に彫られた「福祿」の文字と、殿内にある一対の素朴な花崗岩の蟠龍柱(とぐろを巻く龍の柱)は、どちらも1855年に作られたものです。廟内には歴史ある扁額も数多く、中でも台南三大名扁に並べられる「一」の字の扁額は一番有名です。「千算万算、天の一算に如かず」という意味が込められていて、天への敬意を表しています。
東嶽殿は府城の七寺八廟に数えられています。1673年に建てられたもので、主神に東嶽大帝を祀っています。近くにある青年路の城隍廟に祀られている城隍爺と同じく死後の世界を司る神様です。東嶽殿は何度も建て直しや道路拡張などが行われたため、拜殿が取り壊され、現在の姿になりました。幸い、取り壊された古い建材は、現在の廟に極力再利用されており、元の様子によく似ています。殿中にはいくつか扁額があり、一番有名なものは1882年に艋舺営守備の羅勝標が献上した「善惡有報」です。廟の中に入ると、陰司大将が左右に立ち、厳粛な雰囲気をかもしています。冥界のイメージにぴったりで、思わず背筋が寒くなります。東嶽大帝の森厳な神威を感じたい人はぜひ訪ねてみてください。
台湾と中国の間には台湾海峡があり、昔から往来が非常に不便でした。役人は台湾各地の任務に派遣される時、廈門に行ってから海路に変更し、激しい荒波の台湾海峡を渡って、ようやく鹿耳門に着くことができました。そしてそこからさらに河を上って府城に向かったのです。
長旅で疲れ果てた役人が、故郷に帰ったような気持ちになれるように、あるいは大陸へ戻る船を待つ役人や、急遽発つ人のために、埠頭付近にはいくつも送迎場所が設けられていました。接官亭は清の時代に文武官僚の送迎に使われた場所です。風神廟の前にある接官亭は、花崗岩で作られています。正面には「鯤維永奠」、裏側には「鰲柱擎天」と刻まれており、柱の装飾は華やかで、一見の価値があります。