仁寿宮(仁壽宮)
仁寿宮祭祀大道公、太子爺は明鄭時代に作られたと伝えられています。主祭神として祀られている保生大帝は、300年以上前、鄭成功の部下であった呉鳩山が順調な航海を祈願して福建省同安県から携えてきた金色の保生大帝像が奉納されたものです。もともとは吳の住まいにありましたが、保生大帝が非常に霊験あらたかで、地元の人々がその奇跡的な庇護に感謝を示すために廟が建立され、増築を繰り返し、現在の規模となりました。
仁寿宮祭祀大道公、太子爺は明鄭時代に作られたと伝えられています。主祭神として祀られている保生大帝は、300年以上前、鄭成功の部下であった呉鳩山が順調な航海を祈願して福建省同安県から携えてきた金色の保生大帝像が奉納されたものです。もともとは吳の住まいにありましたが、保生大帝が非常に霊験あらたかで、地元の人々がその奇跡的な庇護に感謝を示すために廟が建立され、増築を繰り返し、現在の規模となりました。
鄭成功、鄭経父子の墓は、高拱乾の「台湾府志」によると、台湾県武定里洲仔尾、現在の永康区塩洲里に埋葬されましたが、清康熙38年(1699年)、福建南安に改葬されました。1980年、台南県政府によって「鄭成功記念碑」が建てられました。
葉石涛紀念館にほど近い路地にあり、路地を進み堂の中へ入ると、まるで別世界のような静けさに満ちています。擇賢堂は時代を感じさせる建物で、白い壁には木製の原色の門扉、通気用の花模様をあしらった緑色のタイルがはめ込まれ、堂内の装飾も伝統的な姿を保っています。1879年の建立から現在にいたるまで幾度かの改修を経てはいますが、外観は元の姿とほぼ変わることなく、現在もなお斎教先天派の寺として仏門に仕える法師がここで生活をしています。
咸豊11年(1861年)に建立された、当時の政府があった東安坊右営埔に位置する先天派斎教のお寺です。建立当時は簡素な草ぶきのお寺でしたが、同治5年(1866年)に改修されました。光緒12年(1888年)、永続を願う信徒の思いから、寄付により瓦葺の寺に再建されました。明治29年(1896年)、報恩堂は日本人によって接収され、台南医院へと改築されました。そのため、堂主の鄭良謨は補償金と信徒からの寄付を使用して現在の場所へと移転しました。 台南報恩堂は「台南で最も美しい伝統木造建築」と言われています。
「麻豆林家」はその当時、経済的、政治的な力により、「台中霧峰林家」と「台北板橋林家」とあわせて「台湾三林」と称されていました。相続と都市の発展による地価の高騰により、清朝統治時代に建てられた7棟の美しい大邸宅は、所有者の考え方の違いからそのうちのいくつかは取り壊され、改築されるという運命をたどりました。「新四房厝」はその中でも比較的早期に取り壊されました。所有者の古い住宅の保存についての見解が異なったことから、(1978年)5月に中心線から左半分が取り壊されました。
1624年、オランダ人によって安平に熱蘭遮城(ゼーランディア城)が建設されましたが、その地が後背地であったため、台江対岸の赤嵌(当時の台南平埔族赤崁社の居住地)に政治と経済の中心として新たに普羅民遮城(プロヴィンティア城)が建設されました。赤嵌街と普羅民遮街の発展にともない、商業都市としての繁栄の歴史の幕開けとなりました。
鹿鼎記の中で義侠心に厚い武勲に優れた天地会の首領として描かれている陳近南を知らない人はいないでしょう。小説の中の虚構の人物である陳近南は陳永華がモデルとされ、台湾の発展に大きく貢献し、蜀漢の諸葛亮のように鄭経の台湾治世を支えるために力を尽くしました。
1680年に死去したのち、夫人とともに天興州赤山堡大潭山(現在の柳営区果毅里)に埋葬されました。清朝編入後は福建の同安へ改葬されたためこの墓は荒廃し、数十年の時を経て草の生い茂る荒れ地となりました。また、これまでに地元の人々の間で荒れ地にまつわる多くの奇談が知られています。陳永華将軍は今もこの地で忠誠を尽くし、兵士を訓練していると伝えられ、人々が今なお彼を忍び、記憶に留めていることがわかります。2000年に台南県文化局と実業家の林氏により墓の修復と周辺の植栽美化が行われ、現在の姿となりました。
緑の大地をバックに、キャンバスの上で子供たちの楽しそうな声が水しぶきとともに飛び交い、きらめく太陽の光、色とりどりの花が満開に咲き乱れています。庭園の奥へ入っていくと、灰黒色の屋根に赤レンガの建物が現れ、扉を開けると来客を迎えてくれます。カラフルで楽しい桃源郷を体験した後は、静かにまだらな水道の歴史の痕跡をひも解きましょう。
来客を迎える大地の芸術自然の楽園の姿で来客を迎えるのが台南山上花園水道博物館の大きな特徴で、芸術庭園、密林エリア、多肉植物、様々な可愛い生態の姿を庭園広場の各地で見ることができます。広場中央の八田池では、子供たちが完全武装して思い切り遊ぶ姿が見られます。さらに、いくつかのインスタレーションアートは漁光島から移転してきたもので、様々な顔を持つアート作品が多くの人の注目を集め、こぞって写真を撮影するスポットとなっています。
水道の歴史古跡を巡る
萬福庵は鄭成功の部下であった阮駿の邸宅で明永時代に(1646~1683年)に建造され、市定古跡に指定されています。
明永時代(1656年)の舟山を守っていた阮駿の死亡から3年後、阮駿の妻や明宗室の子孫、遺族が鄭成功とともに台湾へ渡ってきました。寧靖王府の後ろに住まいを定め、この場所でお経を唱え、お参りをし、修行を続け、その一生を終えました。阮夫人亡き後その住まいは「阮夫人寺」となり、後に「萬福庵」とその名を改めました。
現在の萬福庵照牆はかつての建物のままで、300年以上の歴史を有しています。石灰で白く塗られた照牆は「照壁」とも呼ばれ、家の中が直接外部から見えないように建てられたもので、風水的な意味合いもあります。
海頭社魏宅は清朝の水師副総兵である魏大猷の子孫の住宅です。もともとは海頭社文龍殿廟の境内左前方にあり、西向きでしたが、大正時代に現在の場所に再建され、南向きとなりました。安平海頭社魏宅は単伸手(棟が片側のみ)の安平では一般的な住宅構造です。レンガ造りで、壁には牡蠣殻灰が使用され、馬の背のように丸くなった切妻屋根となっています。建物の入り口には本来壁門がありましたが、すでに破損し無くなってしまっています。正庁(母屋)は伝統的なしつらえで、門の上には「景星慶雲」の扁額が掲げられ、左側には外に通じるアーチ状の小さな門があります。東側には主寝室があり、これは安平の典型的な住宅構造です。単伸手設計は現在の新しい住宅の増築設計にも用いられている手法で、安平の路地散策には見逃せない昔ながらの住宅です。