宗教廟宇

陳德聚堂は1664年頃に建てられたもので、現在は、全台陳姓大宗祠になっています。近年は台南市ガイド協会(台南市導覽協會)が入居しています。
陳德聚堂は300年あまりの間、よく保存されており、中には絵師陳玉峰の壁画があります。そのほかの廟と同様に、陳德聚堂の中にも伝統的な「憨番扛厝角」と呼ばれる屋根の角を支える人型の彫刻が施されています。しかし、よく見ると、支えている梁の形が少し変わっていることに気付きます。梁に沿って外に出てみると、四角い梁が排水管になっていて、雨水を外に流しているのです。最後は庇にある龍の頭の形をした彫刻の口の部分から排水される仕組みになっています。非常に美しいデザインで、必見のポイントです。

德化堂は1838年頃に建てられた建物です、日本統治時代の道路拡張や第二次世界大戦の空襲を受けて、現在はかつての規模はありません。德化堂は斎教龍華派の道場で、在家居士の特質があります。そのため、伝統的な民家と同じ空間ですが、建物内は仏教寺院で見られる彩色画や装飾が施されています。正殿には観音菩薩のほか、少し変わった神像も祀られています。それは、龍華派祖師羅祖の神像です。神像の前に置かれている三脚の椅子は「三公椅」と呼ばれ、龍華派羅祖、殷普能、姚普善の三人の祖師を象徴しています。また、堂の中には、名匠潘麗水の壁画作品もあります。古い扁額は清朝の同治五年(1866年)に「按察使銜分巡台湾兵備道」丁曰健が献上した「惠普群生」と、道光七年(1827年)の「觀自在」が比較的有名です。所蔵されている文献は、教內経懺宝卷のほか、「三皈五戒牌」「護道榜文」があり、德化堂の重要な宝です。

水仙宮市場と聞けば、考えただけでお腹が空く人が続出するのではないでしょうか。市場には水仙尊王を祀る水仙宮があることから、この名前が付けられています。水仙宮は1703年の建立です。かつての五條港の一つである南勢港のあった地域で、商人が往来したことから、廟も地元の商人らが資金を出し合って建立しました。しかし、現在の水仙宮は、七寺八廟に数えられた当時の姿ではなく、賑やかな市場になっています。水仙宮に来たら、ぜひ市場を散策してみてください。ここは台南の台所とも言え、さまざまな食材がそろっています。また、歴史の長い庶民グルメの店も数多くあります。ディープな歴史に触れられるだけでなく、歩き疲れた後の小腹も満たすことができますよ。

台湾府城隍廟は、「威霊公」とも呼ばれる城隍爺を祀る道教の廟で、中西区青年路にあります。国定古跡に指定されている、台湾の有名な城隍廟でもあります。1669年に東安坊に建てられ、当時は承天府城隍廟と呼ばれました。台湾で早い時期に公的に建てられた廟であり、正殿には大きなそろばんが掛けられています。1937年に信徒の陳江山が献上したもので、枠の上部には「台南府城隍廟」、下部には「丁丑年陳江山奉献」、左右にはそれぞれ「善惡權由人自作、是非算定法難容」の文字が刻まれています。城隍爺がそろばんをはじいて死者の生前の善悪を計算することを表し、勧善懲悪の意味があります。 このほか、廟内には府城三大名扁の一つ「爾來了」(汝来る)の扁額もあり、日頃の行いを振り返るようにという意味が込められています。

台南府城は、地形が鳳凰のような形だったことから、鳳凰城と呼ばれたと言われています。そして、普済殿(普濟殿)の位置は風水八卦の中心にあたり、台南王城の鳳凰が飛んで行ってしまわないようにと普済殿や周辺に四方八方に通じる八卦の網のような道を作り、府城を繁栄させる鳳凰を閉じ込めました。 近年、普済殿の名は広く知れ渡るようになりました。きっかけは2014年の旧正月に初めて開催された絵付けランタンフェスティバルです。たくさんのランタンが廟の前の広大な広場に整然とかけられるだけでなく、周辺の國華街にも続いていて、通りがかった人々を驚かせています。旧正月期間中はランタンが夜の闇に温かな光を放ち、訪れた人々の心をほっこりと温めています。

国華街の路地にはイギリスのセント・ポール大聖堂のような白いドーム屋根の教会があります。ここは台南に西洋文化がもたらされた歴史的にも大きな意義がある場所です。マクスウェル医師が1865年に初めて台南を訪れた際に医療と布教活動を行った場所で、当時ここは五條港と呼ばれた5本の主要な運河の重要な街道でした。街道は西に向かって伸びていたため、看西街と名付けられました。マクスウェル医師はここで布教と医療活動を行いましたが、すぐに地域の保守派の反発を受け、やむなくこの地を去りました。その後、1868年に台南に戻ると、現在の新楼医院の場所で布教と医療活動を続けました。
1951年に教会が落成すると、彼の布教活動の功績を記念して、新しい教会は「看西街教会」と名付けられました。水仙宮市場へ行く際には、路地裏に佇むこの美しい教会を探してみてください。

新舊融合的廟宇
五帝廟建於明永曆年間,在府城「七寺八廟」的名單中,其中一個版本的說法便有將五帝廟算在內,可以說具有一定的代表性。不過相較於其他古剎與古廟,五帝廟因日治與戰後的都市計畫與道路擴寬,而歷經了兩次搬移與重建,並且在2018年完成最近一次的改建。

儘管建築本體屬於現代,廟內卻有著不輸其他古廟的藝術作品,除了年份悠久外,趁著重建的機會,廟方也邀請著名藝師們以當代精神重新詮釋裝飾藝術,有著近一百年時間跨度的作品,就這麼齊聚廟內。

必備觀賞重點
三川殿邀請藝師王武雄,以剪黏技法完成西拉雅族赤崁社、荷蘭、明清、日治四個時期的作品,讓廟口門面如同臺南歷史的縮影;走入廟內,牆面是府城潘氏家族三代的彩繪,名家汪崇楹書法、杜牧河父子泥塑神像,在前殿的屋頂還有對於府城近代發展有貢獻的人物剪黏。
 

主祀:五顯大帝
配祀:觀音佛祖、保生大帝、黑虎將軍、福德正神、順天聖母、月下老人

藝品導覽:水車堵剪黏
鑑賞重點:四個時代的剪黏

廟宇裝飾藝術反映出一個時代重視的價值,並且透過人物故事來彰顯,用意是使來到廟宇的信眾,能透過欣賞剪黏來領略。

昆沙宮主祀中壇元帥(三太子),本名李哪吒,受到《封神演義》的影響,三太子「割肉還母」、「剔骨還父」、「腳踏風火輪」的形象深植人心,更由於祂成神的時候還未成年,因此保留了孩童形象,神像也是一張娃娃臉,搭配招牌風火輪,可以說是辨識度最高的神明之一。

與「頂太子」遙遙相望的「下太子」
昆沙宮又被暱稱為「下太子」,這個「下」(臺語ē)不是上和下,而是指南和北的對應關係。與下太子相對的,是位於西門路巷內的「沙淘宮」,兩間廟距離不遠,同樣主祀三太子,但由於位在相對北邊的位置,因此被稱為「頂太子」,以方便區別。

保有府城罕見的何金龍剪黏
現在的昆沙宮廟貌是1987年重修後落成,廟內的裝飾藝術是眾「師」雲集—施弘毅石雕、潘岳雄門神、蔡草如石板畫、何金龍剪黏,前三位是薪傳獎名師,而何金龍則是來自潮汕的著名剪黏司阜,由於在臺的時間不長,留下的作品不多,且分佈於南瀛地區為主,而昆沙宮所留的壁堵剪黏,則是府城城內唯一而且能近距離觀賞的作品。
 

主祀:中壇元帥
配祀:福德正神、註生娘娘、虎爺

 
藝品導覽:磨石子地板
鑑賞重點:磨石子仙鶴圖

神農主題廟宇
位於長北街上,僅一進、無廟埕的神農殿,不大的廟宇卻見證了府城的歷史。從位置上來看,這裡位於小北門城門至府城十字大街的路上,有著古地名「豆仔市」,說明了這裡是五穀類的交易場所—當先民們從城外以牛車、人力千里迢迢挑運著米穀入城,就近找一處空地進行交易,久了漸成集市,信仰亦然。

靠天吃飯的農民,在每年五穀先帝誕辰(農曆四月二十六日)前,都會從鄉下恭請泥塑「五穀王」金身,來到「豆仔市」前擺設香案,後因擔心運送過程造成神像損傷,咸豐年間信眾決議建廟,經歷次改建終成今貌。

神農殿以神農大帝為主神,次間的門神為二十四節氣,與神農大帝掌管農作相關;壁面的石刻畫作則是知名繪師蔡草如的圖稿,畫的是過去小北門邊的米穀市集場景。

特別的是,廟內的敬獻者署名多為當地米糧行、碾米廠,說明了神農大帝與米糧業的緊密關係。
 

主祀:神農大帝
配祀:福德正神、註生娘娘、中壇元帥

藝品導覽:「神荼、鬱壘」木雕門神
鑑賞重點:罕見的木雕門神

位於仁德區鍾厝,當地人習慣稱廟宇為「鍾厝清寧代天府」。清康熙年間,鍾姓先民率十一姓氏(王黃吳葉林沈阮余楊陳蔡)先民一同自泉州同安渡海來臺,為了路途的平安,並自廈門草仔鞍奉迎吳府千歲神尊隨行庇護。來臺後,除了吳府千歲外,又自南鯤鯓代天府分香,迎來李府千歲、池府千歲、朱府千歲、范府千歲神尊(建廟時間不詳)。

1978年,鄰近的清寧宮因道路拓寬,鍾厝庒民因感於福德正神無廟堂安身,故鳩資建廟,1982年廟宇建築落成,以五府千歲為主神,並將福德正神奉祀於側。

雖然外表為魁偉的新廟,但清寧代天府卻不乏府城知名藝師的作品,包含了潘麗水與潘岳雄父子共繪的「秦叔寶尉遲恭」門神、陳壽彞畫稿的石刻版畫、張棋洲壁畫與樑枋彩繪,值得駐足欣賞。
 

主祀:五府千歲(吳府千歲、李府千歲、池府千歲、朱府千歲、范府千歲)
配祀:觀音佛祖、關聖帝君、天上聖母、中壇元帥、張天師、濟公活佛、玉皇上帝、福德正神、下壇元帥

藝品導覽:「秦叔寶、尉遲恭」門神彩繪